皆さんはスピーチライターという職業をご存知でしょうか?これは演説(スピーチ)をする本人に代わってその原稿を執筆する人物、またはその職業ですが、今回は1960年代にいたアメリカ大統領ジョンFケネディのスピーチライター「セオドア・C・ソレンセン(テッド・ソレンセン)」をご紹介します。
セオドア・チェイキン“テッド”ソレンセンはアメリカの弁護士、作家です。当時のケネディ政権の大統領特別顧問を務め、同大統領のスピーチライターとしての功績が有名な人物です。1945年にリンカン高校を卒業後、ネブラスカ大学に入学、同大学のロー・スクールで学んています。
若き政治家のリーダーケネディと共に行動
1953年にジョン・F・ケネディが上院議員になると、その後10年間彼とともに行動し、彼の最も親密な助言者となっています。
テッドが関わった当時、ケネディは知名度もそこまで高くなく、影響力も然程ありませんでした。その中で、彼はスピーチライターからスケジュール管理、プレス対応など、PR全般を引き受け、実質ケネディの分身とまで言われるほど親密になっていきます。
ケネディ大統領はテッドのことを「my intellectual blood bank=知的な血液の銀行」とまで呼んでおり、絶大な信頼を寄せていたようです。ケネディだけでなく娘のキャロラインケネディもソレンセンのことを親切なカウンセラーとして一家との親交もありました。
勇気ある人々の著書に関わる
ケネディのピュリッツァー賞受賞作品「勇気ある人々」のリサーチなどに大きな役割を果たしています。勇気ある人々とは、ケネディが感じた、これまでの歴史で勇気ある行動をとった上院議員たちについて記載した書籍です。
ちなみに勇気ある人々の著書について、当時はマスコミの間で著者はジョンケネディではなく、テッド・ソレンセンとする報道がなされ、ケネディ大統領の父親であるジョセフの反感を買い、報道した新聞社に名誉毀損で5,000万ドルで訴えようとしたこともありました。
名演説の誕生
彼の最も有名な功績は、ケネディの大統領就任演説です。ジョン・F・ケネディは1960年の大統領選挙では民主党代表として共和党のリチャード・ニクソン(Richard Milhous Nixon, 1913-1994)に勝利し、大統領になります。この時43歳。選挙戦で選ばれた大統領としては史上最年少の若さです。
翌1961年の1月、ケネディは大統領就任式で就任演説(Inaugural Address)を行います。
そこで述べられたのが以下の言葉です。
Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country
このフレーズはケネディ政権を象徴するものとして今日まで人々の記憶に残っており、彼が草稿を書いた大統領就任演説中の一番の功績と讃えられています。
翻訳する、国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。という意味になります。
演説はさらに続きます。
My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.
「世界の同胞諸君、アメリカが君たちのために何ができるのかを問うのではなく、我々がともに人類の自由のために何ができるのかを問うてほしい。」
アメリカ人だけでなく、世界中の人たちに呼びかけており、この理想主義がケネディの大きな魅力の一つと言えます。
その後もケネディを後世に語り継ぐ語り部となる
彼なしにはケネディを語ることはできず、彼がいなければ名演説や人々を惹きつけることができなかったでしょう。
1963年11月のダラスで遊説中に起こったケネディ暗殺事件の後、テッドはホワイト・ハウスを去り、1965年、ケネディの伝記Kennedyを著しています。この本は世界的なベストセラーとなり、多くの言語に翻訳されました。ケネディの死後、ベトナム戦争の泥沼によりアメリカの国際的信用が失墜し、国内情勢が悪化すると、アメリカ再建の願いをこめてKennedy Legacyを著し、この中でテッドは、アメリカが再び世界の尊敬を取り戻すには”ケネディの遺産”を継承するしかないと訴え続けました。
ケネディ伝説は彼なしには成立しなかったのではないでしょうか?