今回はタリバンについて語っていきます。アフガニスタンの首都カブール陥落され、戦闘で電撃的勝利を収めたイスラム主義組織タリバンとは何者なのか、何を目的に、どこに向かっているのかいるのかを解説していきます。
1. 米ソ冷戦後に生まれたタリバン
アメリカの時代とも言える今のご時世、アメリカは自身の国家を象徴する「自由主義」「民主主義」「グローバリゼーション」等のアメリカの国家戦略に基づいてこのような仕組みを世界中に行き渡らせて自らの繁栄を導こうをする政策が冷戦終結後の1990年代から取り組まれていました。アメリカ式システムが浸透していない中央アジア等の新興市場(トルクメニスタン、ウズベキスタン等)は旧ソ連の一部だった地域であり、アメリカは冷戦後これらの地域に進出するためにはロシアを経由しなければならず、手を出しづらくなっていました。
そこでロシアを経由せずに中央アジアに至るルートとして見出されたのがイランとアフガニスタンです。イランは反米思想が強い国で、選択としてはアフガニスタン以外になかったのです。
アフガニスタンの当時の状況といえば、内戦が勃発していて、治安情勢は悪化をたどっていました。そんな状況ではありつつも、アメリカは内戦を自らの手で終わらせて進出する目論見があり、それをパキスタンと共同して鎮圧を予定していたのでした。しかし民衆は内戦の状況から逃げるために難民キャンプでの生活を余儀なくされていたのです。その難民キャンプで育った若者たちは、今の自国の状況を憂い、腐敗した状況を打破するために、祖国を今の内戦を引き起こしている権力者たちから解放しようという動きをみせます。この運動体は「タリバン」と呼ばれ、難民キャンプで育ったイスラム神学校で学ぶ若者たちとその先生(聖職者ともされる)で結成されました。
これがタリバン誕生の瞬間です、まだそれから30年ほどしか経っていません。
タリバンの台頭
タリバンとはコーラン(イスラム教の聖典)の言葉でアラビア語では学生たちという意味になります。イスラム教は政教分離を許さない教義なので、聖職者といってもかなり政治的思想が強い人が多いのが宗教国家及び国民の特徴です。タリバン結成後、アフガン国境の街クエッタに赴き、ここで地元勢力を制圧し、地元勢力の司令官が誘拐拉致していた女性たちを救出し、市街地へ歩みを進めます。ここまでdドラマチックかつ有望な若者が良い行いをすれば、地元市民は歓喜し、タリバンはさらに進軍。1996年には首都カブールを攻め落として政権の座に着くことになります。冷戦終結後からおよそ7年の歳月です。
しかし実はこのタリバンの台頭にはパキスタン及びアメリカが絡んでいたのです。タリバンが使用した武器はパキスタンからの供与によるもので、武器や間接的なパキスタン(ひいてはアメリカ)の支援を受けてカブールを制圧します。これは内戦を終結させるためにタリバンを利用した彼らの筋書き通りで動いていました。
そしてタリバンは統治をしますが、ここで問題となるのは統治システムです。まずは住民に対してイスラム教を徹底して信仰し、テレビや映画等の娯楽の禁止、女性はブルカという頭から足首まで覆う布をつけることを強制されました。しかしこのような人権侵害が起きてもアメリカは何も批判せず静観していました。これはアフガン平定および中央アジアへの進出のための手段だったからです。この後アメリカがタリバンを批判するようになったのはオサマビンラディンが対米テロ攻撃を強めた1998年以降になります。
アメリカやパキスタンの思惑とは別に、タリバンは純粋なイスラム国家の樹立を目指していました。彼らが目指すイスラム国家を成立させるためには、都市部に浸透していた米欧文化や生活習慣、思想などを排除することが必要と考え、都市部の住民を中心に人権侵害に近いような政策を取り続けていました。かたや農村部では保守的な人々が多く、イスラム教を信仰し、あまり欧米文化に染まらない保守的な人が多いことから、タリバンは都市部の人々を中心に目の敵にしていました。
2. アフガニスタンの国家としての原型
原型は18世紀のペルシャ(現イラン)のサファビ王朝から独立した時に作られられています。民族は人口の多数を占めるパシュトン族がおり、パシュトン族はさらに北部と南部で枝分かれします。パキスタンは北部系の部族と仲が良く、タリバンは南部出身者が多いこともあり、必然的に南部部族と交流を持つことになります。その後統治者と王朝が入れ代わり続けて、1978年に社会主義政党のPDPAが政権を取るまでは南部系がアフガンを支配していました。
かつては美しい国だったアフガン
アフガニスタンは今では荒涼とした治安の悪い地域として知られているが、かつては美しい庭園がある国として知られていました。16世紀には中央アジアからアフガニスタンに攻め入り、その後インドを支配するに至ったムガール帝国の王も、アフガニスタンのカブールやジャララバードなどに庭園を築いて、その美しさに浸っていたとも言われています。
3. アフガン侵攻とオサマビンラディンの登場
米ソ冷戦時にソ連はアフガニスタン介入を行っています。これに踏み切ったのは、戦略的な要衝である同国における共産主義体制を維持することと、イスラム原理主義がソ連にも流入するのを阻むことが目的だったと考えられています。これがアフガニスタン侵攻(1979~1989年)と呼ばれるものです。しかし、実はこのソ連とアフガンの対立もアメリカとパキスタンが仕掛けたもので、冷戦でソ連と戦うためにあえてアフガンの兵士を利用したと言われています。当時アメリカはベトナム戦争が終結した後で、国民の反発等もあり、積極的な介入はできませんでした。
アフガンに対する武器供与も行いつつ、こうして戦いがはじまった最中、イスラム教を守るために志願した兵士に中にオサマビンラディンもいました。オサマビンラディンは、元々サウジアラビアにある富豪の家庭で生まれた子供でした。ビンラディンがアフガンに赴いた理由は、ソ連のアフガン侵攻に対する対抗姿勢として、アフガンの一員となってソ連軍と戦うことがきっかけです。ビンラディンは富豪の家庭ならではの潤沢な資産を活用して義勇軍の設立や訓練の事業を手がけてきます。そして冷戦が終結してソ連がアフガンから撤退した後は、一旦故郷のサウジアラビアに戻りますが、サウジアラビアがアメリカと親密になりつつあったことや、アメリカ軍を国内に駐留させるなどアメリカ依存の政府の姿勢に対して批判的な立場をとります。
その結果軟禁状態となり、その後ビンラディンの支持者の手引きでスーダンへと亡命することになります。
この亡命以降、ビンラディンはアメリカとサウジ政府に対して敵意を強め、中東に真のイスラム教国を打ち立てる運動を開始します。しかしその後スーダンも新米路線に切り替えることになり、スーダン政府はビンラディンを国外追放します。
そこで最終的に身を寄せたのがアフガニスタンでした。
宣戦布告
アフガンに戻ったビンラディンはすぐにアメリカに宣戦布告をします。宣戦布告する中で、世界各国に作られた拠点(アラビア語でアルカイダ)と命名され、そのネットワークは反米テロ組織として脅威となります。
アフガニスタンの政府はタリバン政府であり、その当時の最高指導者はビンラディンと仲が良く、ビンラディンを受け入れていくこととなります。しかしアメリカはこれを良しとせず、テロによる脅威をばらまき、イスラム原理主義を広めることを目標にした団体とみなして激しく非難。元を辿ればタリバンにアフガニスタンを平定させたのはパキスタンとアメリカだったにも関わらず、これは皮肉と言うべきでしょう。
しかし、タリバンとビンラディンの内情といえば、そこまで歩調を合わせて進む関係ではなかったと言わざるを得なかったのです。そんな状況ですが、国際社会ではタリバンに対する圧力が高まり、タリバン政権による欧米との敵対意識は高まります。
そして起こったのが9.11です。これを契機にアメリカ政府はビンラディンが犯人組織を束ねていたと断定し、アフガン含めアメリカの攻撃対象になっていきます。
ビンラディンの死後のアフガニスタン情勢
2001年の米同時多発テロをきっかけに、米軍が当時のタリバン政権を攻撃し、崩壊させた後、暫定行政機構を発足させ、04年から2期、約10年にわたってカルザイ氏が大統領を務めました。しかし、国内情勢はなかなか安定せず、その要因のひとつは、タリバンによるテロだったとされています。アフガニスタン戦争後、タリバンはパシュトゥーン地域と呼ばれる国境地帯に逃げ込み、同国への影響力拡大を狙うパキスタンの支援を受けつつ、アフガニスタン政府やアメリカ軍を攻撃し続けました。
国境地帯は中央政府の統治が行き届かず、しかも、麻薬の原料となるケシの密売で得た資金を武器の購入にあてられるため、タリバンにとって絶好の“隠れ家”となっていました。
ゲリラ化したタリバンは、アフガニスタンやパキスタンでテロ攻撃を実施。2012年には女性の教育権拡大を訴える女子生徒マララ・ユサフザイ氏が、タリバンから派生したパキスタンのタリバン運動(TTP)に銃撃されて重傷を負っています。
そして迎えた2019年11月、アメリカのドナルド・トランプ大統領(当時)はアフガニスタンのアメリカ軍基地を訪問し、タリバンと交渉を行った。そして2020年2月に和平合意に至ると、アメリカ軍の撤退路線を定め、その後2021年4月、トランプ政権を引き継いだジョー・バイデン政権が「9月11日までにアメリカ軍をアフガニスタンから完全撤退させる」と表明すると、前述のようにタリバンが一気に勢力を拡大。8月には首都カブールを含む国内全土を制圧して現在に至ります。
4. イスラム原理主義とテロリズム
日本の明治維新と異なり、中東諸国は近代国家として成立できなかった。これは原因は「イスラム教」にあるのではないかと推察されます。19世紀頃、徐々に西欧を中心に植民地化、近代化が推し進められる中で、中東イスラム地域を支配していたのはオスマントルコ帝国です。オスマントルコも近代化を図りましたが失敗に終わっています。
オスマントルコ帝国は、14~20世紀初頭まで存在したイスラム教スンナ派の大帝国。小アジアからバルカン半島、地中海にも進出、君主であるスルタンが教主カリフの地位を兼ねる体制をとり、イスラーム教世界の盟主として16世紀に全盛期を迎え、ヨーロッパ=キリスト教世界に大きな脅威を与えた。17世紀末からヨーロッパ諸国の侵攻、アラブ諸民族の自立などによって領土を縮小させ、次第に衰退してた。19世紀、近代化をめざす改革に失敗、第一次世界大戦でドイツと結んだが敗れ、1922年に滅亡します。
日本で明治維新の起こりと近代化が成功した要因は、天皇を崇める尊皇と文明開化の名の下に積極的に西欧諸国の文化や人を受け入れた姿勢が、効をそうしたともいえそうです。もし文明開化せずに攘夷を続けていればテロリスト主義で反西欧の国として成り立っていたかもしれません。
しかしイスラム教原理主義は外からの援助やイスラム中心でなくなる主義には反対姿勢で、それは第二次大戦後に独立したエジプトが新米路線に切り替えた直後にイスラム系の組織に暗殺される事態に発展しています。ヨルダンやサウジアラビアも新米に舵を切った影響でイスラム諸国との関係悪化を招き、石油危機などの事象を生み出します。
日本でいう日本赤軍、左翼運動に似ているかもしれません。
その後イラン・イラク戦争やイラクによるクウェート侵攻、それによって引き起こされた、アメリカ軍主体の多国籍軍が侵攻したイラクに対する攻撃をくわえた湾岸戦争など、イスラム諸国同士で争うようになっていくと、イスラム圏の民衆は失望していくことになります。結果多国籍軍(アメリカサイド)が勝利することになりますが、そのあとはイラクに対する賠償金の要求や、中東諸国の米欧化、近代化が進んでいくことになります。
かなりタイムリーなニュースですが、イラクのフセイン政権によるクウェート侵攻をきっかけに始まった1991年の湾岸戦争で、敗れたイラクに科せられた賠償金約524億ドル(約6兆円)の支払いが2021年12月26日に完了しました。イラクのメディアが伝えた。米軍主導の多国籍軍が同年2月にクウェートを解放してから、完済までに30年超の歳月を要しました。
中産階級の誕生
湾岸戦争後、エジプトやヨルダンなどの新米国は株式上場や通信市場の整備など、経済的な近代化を進めていきます。イスラム教徒の中にも裕福な層が出現し、宗教に寄らない自由な論争や民主主義など、自分たちの生活や安心を第一に求める人々が現れた。穏健派とも呼ばれるこの国々の姿勢に、イスラム教を第一に掲げる原理主義者は面白くないのは当然のことでしょう。
しかし、今にみるエジプトヨルダンとその他の中東諸国の経済格差や教育格差は歴然としているのも事実です。
ジハードとはなんなのか
ソ連軍によるアフガン侵攻の時にイスラム聖職者たちによって唱えられた「ジハード」。全てのイスラム教徒の男性が参戦しなければいけないとされ、ジハードで殉職すれば天国に行けるという設定になっています。日本の神風のような死ぬことを美徳とし、天皇のため、神のために命を捧げることを第一としている。軍国時代の日本と似ていると思われます。
タリバンのメンバーは、ターバンの色で見分けがつきます。黒いターバンは兵士、白は行政官や宗教指導者、他の一般男性は茶色や灰色、縞模様などです。
タリバンはテレビや音楽を禁止にしています。理由は宗教上の理由とのことです。
一方ではタリバンに対する誤解も?
アフガニスタンに駐在する国連のスタッフによると、タリバンの人権侵害は人権侵害とは別の角度で批判をしているという指摘もあります。例えばタリバンの民族衣装「ブルカ」という女性が着る衣装について、ブルカ自体女性差別として否定する声も上がるが、ブルカは民族衣装であり、アイデンティティとし、逆に否定されて怒っているアフガンの女性も多いというのです。果たして現状はどうなっているのでしょうか。
2021年9月に発刊されたニューズウィークではタリバンの特集が組まれていましたが、なんとアメリカとタリバンがISに対抗するために共闘するのでは?との記事も出ています。
内容については、IS関連で殺害されたアメリカ兵士がタリバンによる攻撃で死亡した死者数より上回っている?、そして最重要課題としてISを標的にすることを優先にしているというのです。
しかしやはり、国際社会て囁かれている、そして事実としてあるのは民主主義の否定とアイデンティティとはいえ人々の思想の自由、言論の自由を奪う、そして密輸密売によるテロ活動の歴史は変わらないのです。彼らの根底に流れるイスラム原理主義思想という穏健派でもビビるような偏った思想は今の人々にとっては苦痛でしかないのではと考えさせられます。
タリバンとロシア、中国との関係は?
ロシアのタリバンの関係は2017年以降緊密であり、ロシアの南下政策と反米というお互いの利害が一致した結果なのかもしれません。中国もタリバン政権の承認に向けて慎重に行動しているともされており、これらの共産独裁主義国で危険視されている2国が支援しているのはかなり不穏とも言えます。
タリバンは今の所不安材料でしかないと言わざるを得ません。