日露戦争とはどういう戦争だったのか?地政学的観点から見る

日露戦争とはどういう戦争だったのか?地政学的観点から見る
2024年11月15日 PLUES
In 歴史

# 日露戦争の背景と展開:地政学的視点からの分析

19世紀末から20世紀初頭にかけて、極東アジアでは日本とロシアの利害が激しく対立した。ロシアは長年の悲願である「不凍港」確保のため南下政策を推し進め、日本は自国の安全保障のため、朝鮮半島と満州での権益を守ろうとしていた。三国干渉を経験した日本は、イギリスと同盟を結び、ロシアとの全面戦争に備えた。

日露戦争では、イギリスの後ろ盾と巧みな外交戦略、そして徹底的に強化された日本海軍の実力により、日本は旅順港の制圧から対馬海戦での勝利まで、一連の重要な戦いを制することができた。この戦争の背景には、ロシアの南下政策とそれを阻止しようとするイギリスの思惑、さらには中国での権益を狙うアメリカの意図など、複雑な国際関係が存在していた。

## 主要なポイント:

1. ロシアの南下政策と不凍港追求が紛争の根本的要因
2. 三国干渉を契機とした日本の軍事力増強と日英同盟の成立
3. イギリスの対ロシア戦略と日本支援の動機
4. 制海権確保を重視した日本の戦略と、イギリスの後方支援の重要性
5. アメリカによる講和調停と戦後の国際関係の変化

この戦争は単なる日本とロシアの二国間紛争ではなく、当時の国際関係と各国の思惑が交錯する中で展開された近代史上の重要な転換点であった。

日本編<

### 三国干渉と日本の覚悟:生き残りをかけた決断

19世紀後半、ヨーロッパ列強が次々と東アジアに進出してきました。その中で、清や朝鮮は古い体制を維持し続け、日本はこれを「反面教師」として見ていました。日本は、中央集権化や軍事力の強化、不平等条約の改正など、急速に近代化を進めていきました。

その結果、明治政府は何十年もかけて国力を高め、日清戦争で勝利しました。この勝利により、下関条約が結ばれ、中国に多額の賠償金を支払わせたほか、朝鮮の独立、遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲することが決まりました。

ところが、この条約が締結されてわずか6日後、ロシア、ドイツ、フランスの三国が、日本に対し「遼東半島を中国に返せ」と勧告してきました。これは、拒否すれば戦争も辞さないという脅しでした。

日本は、この勧告を受け入れざるを得ず、せっかく手に入れた領土を手放すこととなりました。しかし、この出来事により、ロシアとの戦争で勝利しなければ日本の生存が危ういと認識されるようになりました。

もしロシアが満州や朝鮮を手に入れ、港や艦隊を整備すれば、日本海でロシアの軍艦が日本の船を脅かす危険が出てくることは明白でした。日本はこの危機感から、海軍を「ロシア海軍に勝つ」ために徹底的に強化し、軍令部長を含む人事の見直し、若手軍人の海外留学、教育制度の整備、軍艦の新造など、抜本的な改革を実行しました。

この急速な海軍の強化は、日本が地政学的に直面していた危機に対応するものでした。

### ロシアの進出に対抗して戦争へ突入した日本

日本がロシアに備えている間にも、国際情勢は大きく変わっていました。中国では「義和団の乱」が発生し、最初は中国軍がこれを鎮圧していましたが、反乱が北京まで広がると、西太后は義和団を支持し、ついには中国がイギリス、ロシア、フランス、アメリカ、ドイツ、イタリア、オーストリア、そして日本に宣戦布告しました。列強諸国はすぐに連合軍を派遣し、圧倒的な戦力で北京を占領しました。

この8カ国の中で、特に多くの兵力を投入したのはロシアと日本でした。ロシアはこの混乱を口実に満州全域を支配しようとし、日本やイギリス、アメリカがこれに抗議しましたが、ロシアは撤兵の期限を設定したものの、兵力を増強し続け、結局約束を守りませんでした。

イギリスは、ロシアのさらなる勢力拡大を防ぐため、日本と「日英同盟」を結び、ロシアに対抗する姿勢を強めました。この同盟は、ロシアとの戦争を覚悟していた日本にとって、非常に心強い支えとなりました。

1903年、日本はロシアに対し「満韓交換論」を提案しました。これは、ロシアが満州を支配する代わりに、日本が朝鮮半島を支配することを認めるというものでしたが、ロシアはこれを拒否しました。

さらに、シベリア鉄道の全線開通が迫っており、これが完成すればロシアは大量の兵士を迅速に移動できるようになり、陸軍の力が一層強化される状況にありました。時間が限られていた日本は、1904年2月、ロシアに対し国交断絶を通告し、日露戦争が始まることとなったのです。

ロシア編

### ロシアの長年の野望:南へ進出し、凍らない港を手に入れること

ロシアは、イギリスやフランスのような大国に追いつくために、南へ進出して貿易ルートを確保したいと考えていました。当時ロシアが利用できる主要な海は、黒海とバルト海だけでしたが、どちらも大きな問題を抱えていました。

**黒海**はクリミア半島に面した重要な海域ですが、外洋へ出るにはトルコのボスポラス海峡とダーダネルス海峡を通過する必要がありました。しかし、当時のオスマン帝国はロシアの通行を許していませんでした。

**バルト海**に面する地域は、18世紀にロシアが獲得し、ピョートル大帝がサンクトペテルブルクという貿易都市を建設しましたが、この海は冬になると凍りつき、半分の期間は港が使えない状態でした。

そのため、ロシアにとって「南へ進出し、凍らない港(不凍港)を手に入れること」が長年の夢となりました。しかし、その夢を阻止したのがイギリスでした。

ロシアは、ギリシャ独立戦争、エジプト独立戦争、クリミア戦争、露土戦争と、4度にわたって南方進出を試みましたが、いずれもイギリスの外交戦略によって失敗に終わりました。

その一方で、ロシアは中央アジアからインド洋を目指すルートにも注目していました。しかし、ここでもイギリスがアフガニスタンをめぐって対抗し、ロシアの野望を阻止しました。

最後に、ロシアが注目したのは極東ルートです。シベリア鉄道の終点、ウラジオストク港から日本海や太平洋に抜ける道を確保しようとしたのです。この動きもイギリスは警戒していました。

### 三国干渉と中国分割の密約

ロシアは、極東ルートを確保するため、フランスやドイツと手を組み、日清戦争後の日本に対して挑発的な要求を突きつけました。これが「三国干渉」です。日本は三国の軍事力に対抗できないと判断し、その要求に従いました。

その後、ロシアは中国(清)の李鴻章をサンクトペテルブルクに呼び出し、密約を結びました。ロシアは遼東半島の旅順と大連を租借し、さらに満州北部の経済的な独占権を手に入れました。フランスは南中国、ドイツは山東省をそれぞれ勢力圏にしました。

イギリスもこの機会に乗じて、遼東半島の対岸にある威海衛と香港の北部にある九龍半島を租借し、ロシアとフランスの動きを監視しました。ロシアはシベリア鉄道の支線として東清鉄道を建設し、日露戦争直前にはシベリア鉄道と接続しました。これにより、ロシアは念願の凍らない港とその輸送ルートを確保し、満州全域の支配も果たしました。

この頃、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はロシア皇帝ニコライ2世に度々書簡を送り、極東進出を支持し、「朝鮮はロシアのものだ」と勢力拡大を促しました。ドイツは、これによってロシアをヨーロッパから遠ざけ、イギリスとの対立を煽ろうとする意図がありました。

こうした各国の思惑が交錯する中で、ロシアが満州を確保したことで、日本にとって日本海航路の安全が脅かされることになりました。日露戦争は一般的には朝鮮半島や満州をめぐる争いとされていますが、実際には日本とロシアがこの地域を欲しがった背景には、こうした地政学的な問題があったのです。

なぜ英米は日本を助けた?

### 日英同盟のきっかけ「生麦事件」

江戸時代も終わりに近づいた1862年、「生麦事件」というトラブルが起こりました。これは、薩摩藩の行列にイギリス人が乱入し、それに対して薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件です。イギリスは幕府から賠償金を得ましたが、それだけでは納得せず、薩摩藩と直接交渉をしようとしました。そこで、イギリスは7隻の軍艦を鹿児島湾に送り込みましたが、交渉はうまくいかず、最終的に武力衝突(薩英戦争)に発展しました。

この戦争は2日間で終わり、イギリス艦隊は横浜に撤退しましたが、相当な損害を受けました。一方で、薩摩藩も城下町の一部を焼失するなどの被害を受けました。しかし、世界最強と言われるイギリス艦隊に対して戦い抜いた薩摩藩に、イギリスは次第に尊敬の念を抱くようになりました。

その後、イギリスと薩摩藩は意外にも和解し、信頼関係を築いていきました。イギリスは薩摩藩に最新の兵器を提供し、結果的にこれが江戸幕府の転覆(明治維新)を後押しすることとなりました。

イギリスはその後も、明治政府と深い関係を築き、日本の近代海軍の設立に協力しました。当時、シベリア鉄道が完成する予定があり、南下を目指すロシアに対抗できる日本の軍事力を強化することが、イギリスの狙いでした。これは先を見据えた長期的な戦略でした。

### 義和団の乱と日英同盟

義和団の乱が起こった際、イギリスは南アフリカのボーア戦争に集中しており、中国に十分な兵力を送れませんでした。一方、ロシアは大量の兵士を投入し、その勢力を拡大させていきました。これに危機感を抱いたイギリスは、ロシアと対抗するため、日本への経済的・軍事的支援を決定しました。これが「日英同盟」成立のきっかけとなったのです。

### イギリスは参戦を避け、アメリカは講和を仲介

日露戦争が始まった直後の1904年、イギリスとフランスは「英仏協商」という友好条約を結びました。長年対立してきた両国が歴史的な和解を遂げたのです。

フランスはロシアとの間に「露仏同盟」という軍事同盟を結んでいました。もしフランスが日露戦争に参戦することを表明すれば、イギリスは「日英同盟」の義務として参戦しなければならない可能性がありました。これを避けるために、イギリスとフランスは協商を結び、戦争への拡大を回避しました。

一方、アメリカは1898年にフィリピンを占領し、東アジアへの進出を強めていました。翌年には国務長官ジョン・ヘイが「門戸開放宣言」を発表し、中国の主権尊重と自由な貿易を求めました。表向きはロシアの満州支配に反対する立場でしたが、実際には中国での権益拡大を狙っていたのです。

日露戦争後、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は、日本からの要請を受けて講和の仲介役を務め、ニューハンプシャー州ポーツマスで講和会議が開かれました。アメリカはこれを機に国際社会での影響力を強めようとしました。

しかし、ポーツマス講和条約の後、日本とロシアは満州や朝鮮における権益を分け合う「日露協約」を結びました。結果的に、イギリスはロシアの海洋進出を阻止するという目的を果たし、アメリカは期待していた権益を得ることができませんでした。

日本は勝つのは当然だった?

### 日本がロシア海軍から制海権を奪った戦い

日露戦争が始まった時、日本にとって最も重要な目標は「制海権」を握ることでした。具体的には、ロシアの太平洋艦隊を撃破し、さらにヨーロッパから援軍としてやってくるバルチック艦隊が到着する前に決着をつけることが重要でした。

一方、ロシアは海上戦よりも、朝鮮半島に上陸してくる日本軍を陸で迎え撃つ戦略をとっていました。日本軍が上陸してきても、補給路が長くなったところで攻撃すれば良いと考えていたのです。

しかし、ロシアの太平洋艦隊に配属された新しい戦艦「オスリャービヤ」は、造船所から旅順へ向かう途中でロシアに戻され、開戦には間に合いませんでした。そして、1904年2月8日、ついに日本海軍が旅順港を奇襲し、日露戦争の幕が開けました。次の日には仁川沖で海戦が起こり、日本は圧倒的な勝利を収め、陸軍も朝鮮半島に上陸しました。

ロシアの太平洋艦隊は旅順港に立てこもり、バルチック艦隊の到着を待ちましたが、日本は旅順港を封鎖する作戦を開始。古い輸送船を沈め、ロシア艦の出入りを阻止しようとしましたが、3度の試みはいずれも失敗しました。そこで日本は、陸海軍が共同で旅順港に砲撃を加える作戦を実行し、ついにロシア艦隊は脱出を図ります。しかし、連合艦隊司令長官・東郷平八郎がこれを迎え撃ち、黄海海戦でロシアの旗艦ツェザレヴィーチを撃破。さらに、ウラジオストクからのロシア艦隊も日本海で敗走し、日本はこの海域での制海権を完全に掌握しました。

### イギリスの支援が大きな力に

ロシアは、バルト海にあった艦隊を第二太平洋艦隊として編成し、極東に向けて出発させました。さらに翌年には第三太平洋艦隊も編成し、日本はこれらを「バルチック艦隊」と呼びました。しかし、この航海は困難を極めました。

バルト海から出航した艦隊は、日本の待ち伏せを警戒するあまり、イギリスの漁船を攻撃してしまい、イギリス国内で反ロシア感情が高まりました。その後、イギリス領を含む寄港地での補給が次々と拒否され、乗組員の士気は低下し、多くが亡くなりました。イギリスの地の利を生かした圧力により、ロシア艦隊は戦う前から疲弊してしまったのです。

バルチック艦隊は旅順が陥落したという報を受け、目的地をウラジオストクに変更しましたが、1905年5月、対馬沖で日本海軍と遭遇します。すでに制海権を握っていた日本は、整備された艦隊と徹底的な訓練を経て、バルチック艦隊を迎え撃つ準備が整っていました。イギリスからも敵艦隊の詳細な情報が提供されており、日本海軍はバルチック艦隊を撃破し、その大半を無力化しました。この圧勝の裏には、イギリスの海上支援が大きな役割を果たしていたのです。

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