イスラエルってどんな国?建国の歴史から中東和平まで幅広く解説

イスラエルってどんな国?建国の歴史から中東和平まで幅広く解説
2023年12月31日 PLUES
In ニュース, 政治, 歴史

イスラエルと聞くと、一般的な日本人は「パレスチナ問題」「紛争」など、必ずしも明るいイメージを持っていないかもしれない。ところが、アメリカでは大きく事情が異なる。ICTやバイオ、医薬品関連などハイテク分野を中心に、イスラエルは「わくわくさせられる注目ブランド」で、目を離せないというイメージを持たれている。グーグルやインテルなど、世界最先端を行く企業がこぞってイスラエルに進出し、優秀な人材のリクルートや投資を活発におこなっている。最近ではイスラエルのワインも評価が高い。だが、こうした変化は、ほんの何十年前には想像もできなかったことである。

冷戦後の経済成長率もイスラエルは17.4%に対して日本は2.5%と大きく凌駕。2022年のイスラエル経済は、実質GDP成長率は6.5%と、前年の9.3%に続き高い成長率となっています、ちなみに日本は2022年1.7%です。イスラエルは地中海沿岸に位置し、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの文化の融合地点として栄えてきました。近年では、「中東のシリコンバレー」と呼ばれていたり、一年中新鮮な野菜やフルーツを楽しめたり、世界屈指のホテルリゾートがあったりと、意外な面がたくさんあります。

今日に至るイスラエルの歴史等紐解きます。

目的はただ一つ「生存」=国家ビジョン

イスラエルが起業率、ベンチャーキャピタルの投資額などすごいのは、国の生存を賭けた国民及びユダヤ人の気概です。
インテルのCPUはイスラエルの研究所で開発されている可能性が高いと言われます。YouTubeのおすすめ動画の機能もイスラエル、ウィルスから守るためのセキュリティ機能ファイアウォールもイスラエル。

イスラエルは国土の大部分が乾燥地帯ながら、食料自給率は90%以上を達成する世界有数の農業国です。また自給するだけでなくヨーロッパを中心に多くの農産物を世界中に輸出しています。自分たちの力で生きて行くために、自給自足を始め、農業を充実させるための土地開発も始めました。迫害の歴史から、彼らの共同体では「平等」を掲げみんなで生きて行くための「強い団結」が生まれました。

イスラエルは移民国家でもあります。1948年の建国以来人口は60万人から1000万近い規模まで拡大。その移民の受け入れの判断根拠となるのは「帰還法」と呼ばれる法律です。帰還法は、1950年7月5日に可決されたイスラエルの法律で、ユダヤ人、1人以上のユダヤ人の祖父母を持つ人、およびその配偶者がイスラエルに移住し、イスラエル市民権を取得することを認めています。帰還法の第 1 条は、「すべてのユダヤ人は、移民としてこの国に来る権利を有する」と宣言しています。帰還法において、イスラエル国家は、イスラエルをユダヤ人国家として設立することを求めるシオニズム運動の「信念」を実行しました。1970年には、ユダヤ法の正統な解釈の下でユダヤ人とみなされるかどうかに関係なく、少なくとも1人のユダヤ人の祖父母を持ち、ユダヤ人と結婚している人々に入国と定住の権利が拡大された。この改正の背景にあるのは、イスラエルとしての存続をかけて人口を増やし、さらに優秀な人も国民として認めてイスラエルの産業を発展させようという意図があると考えられます。
実際にイスラエルは天然資源に乏しく、パレスチナとの度重なる紛争により、人材や知恵に頼らざるを得ない状況も、イスラエルの産業構造を垣間見えるポイントではないでしょうか。

イスラエルはその教育にも特徴があります。軸としては算数と科学、外国語に重きを置き、以下のスタンスで教育を推進している。
・問題を解決するためのソリューション教育
・自主自立の精神
・グローバルに考えろ

ただ近年では、新移民と旧移民との間で政治的軋轢が生じていることも見逃せないです。それは旧移民の欧州系と、アフリカや中東などからきた新移民の間にある経済格差です。人種だけでも七十以上いるとも言われ、まさに人種のるつぼです。
政府の幹部以上は旧移民の欧州系に寄っていることも新移民に対する感覚のずれみたいなものはあるかも知れませんが、彼らに共通しているイスラエル人としてのアイデンティティーを保っている意識としては、以下2点とされています。
・ヘブライ語
・国防

キブツについて

キブツとは「平等と共同体の原則に基づく独自の社会的経済的枠組」です。キブツとは、場所の名前でもないし、行政区分の一つでもありません。人々が集まり、みんなで生産して暮らしていく、人々の集合状態です。この大きな家族=キブツには、それぞれ名前がついています。例えば、自分がキブツに住んでいるといえば、どのキブツに住んでいるのかそのキブツの名前を言います。
かつてローマ帝国の属州民となったユダヤ人は、1~2世紀に繰り返し解放戦争を戦い、ユダヤ対ローマ戦争で敗北したユダヤ側はパレスチナの地(現在のイスラエル)を追われて、世界中に離散しました(ディアスポラ:よくパレスチナ以外の地に移り住んだユダヤ人およびそのコミュニティに使用される言葉)。何百年もの間難民となったユダヤ人は、逃亡先の国でも迫害に遭います。1909年、ロシアで迫害を受けていたユダヤ人は、パレスチナのガリラヤ湖周辺に帰還しました。そこでそのユダヤ人たちは、自分たちの共同体を作ります。これが今のキブツの原点となりました。キブツは、歴史上で最も成功した社会主義実験のひとつとしての遺産を保っている。最盛期には、270ものキブツが存在しました。社会的制度的発展の先導者としてのキブツの中心的役割は低下し、1970年代以降は当初強すぎたほどだったその政治力も弱まりましたが、今なお存続してます。

軍需産業も盛ん

第3次中東戦争(1967年6月、イスラエル軍がエジプトなどに侵攻)を経て彼らは国内生産に踏み切る。近年話題のAI、センサーにコンピュータ・ビジョン。これらの技術の多くは、イスラエルの防衛産業で育まれたものばかりだ。

18歳から男女ともに兵役義務があり、イスラエル国防軍(IDF)で数年間を過ごす。資源をもたないイスラエルは、創意工夫で難局を乗り越えてきた歴史をもつ。戦局を優位にする偵察用ドローンやサイバーセキュリティ、ミサイル迎撃システムの開発に注力し、サイバー領域に特化した精鋭部隊も生まれるようになる。知識、チームワーク、リーダーシップを身につけた彼らの中からは除隊後、起業家を志す者も出てくるようになった。

タルピオット

エリート育成プログラム「タルピオット」とはタルピオットは、毎年義務教育(5~18歳)を修了する予定で予備審査をした学生約1万人の中から、科学技術、リーダーシップ、イノベーティブな思考に秀でた学生を50~60人を選抜。イスラエルがサイエンスの基礎と考える数学・物理・情報科学の3つの領域を学び、3年間で2つの学位を取得するもので、同時に、軍事技術開発プロジェクトを経験し、プロジェクト・マネジメントやリーダーシップスキルなどを養う、科学技術系エリート育成プログラムです。タルピオット卒業後には6年間の兵役が義務付けられていますが、その後のキャリアは自由で、軍に残る人、アカデミックに進む人、起業する人など、進路は様々です。この卒業生たちが、ライドシェアサービスのViaやマイクロソフトが買収して注目されたクラウドセキュリティ会社のAdallomなど、多数のテック・ベンチャーを創業しています。修了後のキャリア作りにもリソースを投入タルピオット創設の背景には、天然資源を持たず、周囲を対立国に囲まれたイスラエルの成長には人材への投資が欠かせないという、初代首相ダヴィド・ベン=グリオンの考えがあります。その投資の真剣さは、タルピオットへの投資額とフォロー期間の長さに現れています。タルピオットでは、3年間で1人あたり約50万ドルを投資。そして、プログラム期間中はもちろん、卒業生が自身の能力を最大限に活かして活躍できるように、約10年間フォローアップをしています。どんなスキルを身につければいいか、どんなポジションであれば自分をもっと活かせるかなど、卒業後もメンターからのアドバイスを受けることができるのは、キャリアの初期のステージである20代の人材育成においてとても重要なこと。卒業生のネットワークも緊密で、お互い支援しあうこともよくあるそうです。筆者が在籍していたボストン・コンサルティング・グループやGEなどの企業でも、卒業生ネットワークは濃密です。特にGE時代の選抜プログラム出身者のネットワークは非常に濃いもので、たとえ違う会社に在籍していてもお互いのビジネスのために助け合うほど。軍事演習もある厳しい環境をともに過ごしたタルピオット生のつながりはそれ以上だろうと、容易に想像できます。

建国の歴史

まず、イスラエルおよびパレスチナがある中東とはどこか。一般に「中東」と呼ばれている地域は、東はアフガニスタンかイランから、西は北アフリカの大西洋に面したモロッコかモーリタニアまで、北はトルコ、南はスーダンまでの範囲を指しています。アフリカとインドの間あたりの地域です。 この地域外でも宗教や歴史上で深いつながりがある中央アジアや、同じイスラム世界ということで東南アジアなどは中東と密接な関係を持っています。でこの中東にあるパレスチナと呼ばれる地域は長年、オスマン帝国(イスラム教の大帝国で現在のトルコ)が支配していた。第1次世界大戦でこのオスマン帝国が敗れると、パレスチナはイギリスが支配するようになった。この土地には当時、ユダヤ人が少数派として、アラブ人が多数派として暮らしていた。ほかに、さらに少数の民族集団もいた。ユダヤ人の「ナショナル・ホーム(民族的郷土)」をパレスチナに作るするよう、国際社会がイギリスにその役割を託したのを機に、ユダヤ人とアラブ人の緊張は高まった。

これは1917年の「バルフォア宣言」に端を発している。19世紀にシオンの丘(エルサレム)にユダヤ人国家建設を目指すシオニズムが本格化し、パレスチナへのユダヤ人の入植も増え、1914年に第1次大戦が始まると、オスマン帝国と戦った英国は、各勢力の協力を取り付けるため「三枚舌外交」を展開。フセイン・マクマホン協定(アラブ人に国家独立を約束)▽サイクス・ピコ協定(フランス・ロシアとオスマン帝国分割に合意)▽バルフォア宣言(ユダヤ人に国家建設を約束)という「空手形」を切り、現在まで続く対立の火種をつくっています。当時のアーサー・バルフォア英外相は、イギリスに住むユダヤ人の団体に対する書簡で、「パレスチナにおけるナショナル・ホームの設立」に賛成し、約束したのだった。
この宣言をもとにイギリスはパレスチナ統治を開始。イギリス委任統治領パレスチナは一時大戦後の1922年設立の国際連盟で承認されています。

ユダヤ人にとってパレスチナは先祖の土地だった。旧約聖書は神がエルサレムの地をユダヤ人に与え、紀元前1000年ごろにユダヤのダビデ王が王国を築いたと記されています。また、この地はイエスがローマによって十字架に架けられ処刑された土地でもあります。さらにイスラムの預言者ムハンマドは621年にエルサレムから天に昇り、神から言葉を授かったといわれます。この伝承により、エルサレムはイスラム教徒にとっても、メッカ、メディアに次ぐ聖地となり、これら三宗教にとって聖地になった経緯があります。
イスラム教を信仰するパレスチナのアラブ人も、ここは自分たちの土地だと主張し、ユダヤ人の国をパレスチナに作ることに反対した。1920年代から1940代にかけて、パレスチナ地域へ流入するユダヤ人は増え続けた。大勢が欧州での迫害、とりわけナチス・ドイツによるホロコーストを逃れて、パレスチナに入った。
ユダヤ人とアラブ人の間の暴力、そしてイギリスの支配に対する暴力も、増え続けた。

1947年になると国際連合の総会が、パレスチナを分割しアラブ人とユダヤ人の国をそれぞれ作り、エルサレムはそれとは別の国際都市にするという決議案を可決した。ユダヤ人団体の指導者たちはこの国連総会決議を受け入れたが、アラブ側は拒否。この決議は実施されずに終わった。問題が解決できないまま、イギリスは1948年にパレスチナから撤退した。ユダヤ人指導者たちはただちに、イスラエル建国を宣言した。

この新国家は、迫害を逃れるユダヤ人の安全な避難先となると同時に、ユダヤ人にとっての民族的郷土となるべきものとされた。こうした中、すでにユダヤ人とアラブ人の軍事組織の戦闘は激化していた。イスラエルが建国を宣言した翌日、アラブ連盟に加盟するシリア、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトの5カ国がイスラエルを一斉攻撃した。

何十万人ものパレスチナ人が、自宅を追われるか逃げるかした。パレスチナの人たちはこれを「アル・ナクバ(大災厄)」と呼ぶ。翌年に停戦が実現するまでの間に、イスラエルは領土のほとんどを支配するようになっていた。

戦闘のなかエルサレムはイスラエルとイギリス委任統治領だった1946年に独立したトランス・ヨルダン王国(1950年に後のヨルダン・ハシミテ王国 と改称)によって東西から占領されました。 1949年のローザンヌ議定書では、イスラエルとヨルダンの占領地に沿って休戦ラインが確定されました。これに基づき、ヨルダンが「東エルサレム」を含むヨルダン川西岸を併合したのに対して、イスラエルは「西エルサレム」を首都と宣言し、政府機関の移転を開始したのです。 エルサレムの東西分裂にともない、西エルサレムに居住していたイスラム教徒や東エルサレムに居住していたユダヤ教徒、キリスト教徒はそれぞれ排除されました。エルサレムの東西分裂は宗派の純化を促し、結果的に相互不信をさらに深めたのです。

エルサレムが再び「統一」される転機となったのは、1967年の第三次中東戦争でした。この戦争でイスラエル軍はヨルダン川西岸の全域を制圧。これにともない、東エルサレムは西エルサレムに事実上併合されたのです。これに対する批判がイスラム諸国だけでなく米国を含む西側諸国から出るなか、イスラエルはエルサレムの実効支配を強化。エルサレム市域が拡大され、ユダヤ人居住区が確保された一方、周辺のパレスチナ人居住区は市域から排除されました。エルサレム人口に占めるユダヤ人の比率が高まるなか、1980年にイスラエル政府は「エルサレム基本法」を制定し、統一エルサレムを首都と宣言。大統領府や議会をはじめとする国家機関を設置し、各国に対して大使館をテルアビブから移転することを求め始めました。統一エルサレムの実効支配を国際的に認めさせようとするイスラエルに対して、国連安保理はエルサレム基本法を無効とし、イスラエルの主権を認めないことを確認する決議を採択。それ以降も毎年のように国連総会でこれを確認する決議が採択され、イスラエルは孤立を深めていったのです。エルサレムの東側と旧市街には多くのパレスチナ人が住んでいて、「エルサレムは誰のものか」という、世界中の人々にも関わる大問題に発展していきます。

イスラエルとパレスチナの対立は、冷戦終結後に一時緩和しました。米国の仲介による1992年のオスロ合意でイスラエルは、パレスチナ側の停戦を条件に、パレスチナ自治政府の発足を認め、その将来的な「国家」としての独立について協議することを約束。その後、双方は断続的に和平交渉を進めてきました。ただし、そこでは「合意しやすいところから合意していく」ことが優先されたため、「合意の得にくい問題」は先延ばしにされてきました。そのなかには第一次中東戦争以来のパレスチナ難民の帰還問題とともに、エルサレムの帰属も含まれます。そのため、イスラエルによる実効支配が続くなか、オスロ合意に基づいてヨルダン川西岸に発足したパレスチナ自治政府は東エルサレムではなく、その北方約10キロにあるラマラに置かれています。

ところが、一時緩和した両者の関係は、2001年以降の対テロ戦争を機に再び緊迫の度を強めました。2002年にイスラエルは、パレスチナに武器を運んでいた船舶を公海上で拿捕。「パレスチナ自治政府のテロへの関与」を主張してイスラエル軍がラマラを占拠する事態となりました。これと並行してイスラエルは、「テロ対策」としてヨルダン川西岸のユダヤ人入植地とパレスチナ人居住区の間で分離壁の建設を開始。これに対して各国からは「テロ対策を口実に実効支配を既成事実化している」という批判があがりました。
エルサレムの帰属に関して、これまで主に2つの解決案が提示されてきました。第一に、サウジアラビア政府が2002年に提示した、イスラエル軍の即時撤退、東エルサレムを首都とするパレスチナ国家の樹立、難民の帰還――の3点を引き換えに、アラブ諸国がイスラエルとの関係を正常化する和平構想です。イスラエルの実効支配によってエルサレム全域をパレスチナのものにすることが困難であるなか、「東エルサレムを将来的なパレスチナ国家の首都」とする案は、パレスチナ側からも受け入れられています。第二に、EUが提案する「統一エルサレムをイスラエルとパレスチナが共用する」案です。この案は1980年代に米国でもみられたもので、イスラエルとパレスチナ双方の納得を得ようとするものです。これに対して、対テロ戦争を機に、それまで以上に実効支配を強化するイスラエルは、ユダヤ教保守派の政治的影響力の拡大も手伝って、統一エルサレムを首都とする方針を堅持。しかし、その結果、パレスチナやイスラム諸国からの反発をさらに強める悪循環に陥っています。このような錯綜した背景があるなか、トランプ政権が統一エルサレムをイスラエルの首都と認定したことは、イスラエルにとっては朗報でも、それ以外の国にとっては多かれ少なかれ衝撃になりました。

中東戦争

第1次中東戦争 1947年11月、国連はパレスチナ分割案を決議し、解決を図った。それを受け入れたユダヤ人が1948年5月14日にイスラエルを建国したが、その分割はアラブ人側に不利であったため、アラブ連盟が反発し、翌5月14日にパレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発した。戦争は全面的なイスラエルの勝利となり、エジプト王国などアラブ連盟軍が敗北、イスラエルは事実上、パレスチナを占拠して国家を建設した。アラブ系住民はパレスチナ難民となって近隣のヨルダン、レバノン、シリアなどに逃れた。この時土地を失ったアラブ難民にとってはこれが現在に続く苦難の始まりであったので、イスラエルが独立宣言をした5月14日を「大災厄(ナクバ)」として記憶している。また、敗れたアラブ諸国は、王政や豪族連合体の諸国で、戦闘能力も結束力も弱いことを露呈した。そのことはアラブ側に深刻に受け止められ、まず1952年にエジプトで自由将校団による王制打倒のエジプト革命が行われて共和政となり、イラクにも波及、アラブ側にも大きな転機となった。こうしてパレスチナ問題はパレスチナにとどまらず、イスラエル(及びその背後の英仏、アメリカ)対アラブ諸国の中東全域を舞台とした戦争に発展していく。

第2次中東戦争 1956年10月29日に勃発した第2次中東戦争は、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言したところから、反発したイギリス・フランスがイスラエルと共にエジプトを攻撃して始まった。英仏軍の支援を受けたイスラエル軍はシナイ半島を占領したが、国際世論はアメリカ・ソ連のいずれもイギリス・フランスを非難し、英仏とイスラエルは国際的に孤立したため撤退、エジプトのスエズ運河国有を認めた。エジプトのナセルは戦争では敗れたが実質的な勝利を得て、アラブ世界の英雄として認められ、以後のアラブ勢力はナセルを中心に展開される。ナセルは1958年、シリアとアラブ連合共和国で合同しアラブ世界の統合を目指したが、その試みは1961年にシリアが離脱したため失敗した。

第3次中東戦争 パレスチナ難民の中からイスラエルを敵視し、アラブ人による国土の奪還を目指すパレスチナ解放機構(PLO)がエジプトとシリアの支援によって、1964年5月に結成された。それをイスラエルは強く警戒したが、国際世論がアラブよりになり、英仏も直接的にイスラエルを支援できなくなると、イスラエルはみずから空軍など軍事力の強化に走り、1967年6月5日に第3次中東戦争を仕掛け、6日戦争と言われる短期間に、シナイ半島・ヨルダン川西岸・ガザ地区などを占領する一方的勝利を収めた。これでナセルの権威は失墜し、間もなく死去した。

第4次中東戦争 ナセルに代わったエジプトのサダト大統領は、1973年10月6日にイスラエルに対する奇襲攻撃を成功させ、世界を驚かせた。この第4次中東戦争では、緒戦においてはじめて敗北したイスラエルは間もなく反撃したが、今度はアラブ諸国が「アラブの大義」を掲げて結束し、石油戦略を展開、有利な休戦に持ち込み、シナイ半島のエジプトへの返還の見通しとなった。しかし、ガザ地区やヨルダン川西岸にはイスラエル人の入植が進み、そこからの撤退は認めなかった。

そして今、第5次もよべる中東戦争が発生。パレスチナ自治区ガザ地区で軍事衝突が始まった今年10月7日以降から今に至る戦争ですが、最近の調査で、最初の1カ月間でイスラエル軍が数百発の大型爆弾を使い、多くは1000フィート(約305メートル)以上離れた住民らも死傷させる破壊力を持っていたことが28日までにわかった。CNNとAI(人工知能)企業「シンセティック」による衛星画像などの分析で判明した。これら爆撃によって地面に刻まれた穴の直径は12メートル超で、500カ所以上にできていた。この直径は、2000ポンド(約907キロ)爆弾が着弾した際に生じる規模と一致している。同爆弾は、米軍がイラク・モスルで以前に実行した過激派「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」の掃討作戦で用いたものより4倍の重さともなっている。ISIS壊滅の作戦で米軍が2000ポンド爆弾を使ったのは1度だけともされている。同組織が「国家」樹立を宣言し、「首都」としたシリア北部ラッカに投下していた。兵器などの専門家は、ガザでの死者数の急増は2000ポンド爆弾のような大型爆弾の広範な利用が原因と非難。ガザは地球上で人口密度が最も高い地域の一つとなっており、大型爆弾の使用は重大な人的損失などを招くと説明した。

ガザ地区とは

ガザ地区は、イスラエル、エジプト、地中海に挟まれた全長41キロ、幅10キロの領土。約230万人が暮らし、世界で最も人口密度が高い地域の一つだ。地中海に面したガザは、古代からアフリカとアジアをつなぐ交易の中継地として多くの人が行き交い、 アレキサンダー大王やナポレオンも足を踏み入れた歴史的な場所です。 長くオスマントルコの支配下にありましたが、第一次世界大戦後はオスマン帝国が崩壊するとイギリスの委任統治領になり、1948年には第一次中東戦争とイスラエルの建国の結果、エジプトの管理下になりました。
この時多数のパレスチナ難民が流入し、ガザの人口は5倍になりました。
1967年の第三次中東戦争によってイスラエルに軍事占領され、以来、インフラや産業が破壊されたまま整備されず、人口の多い貧しい地域になっていきました。肥沃な土地はイスラエルの入植地として没収されたこともあり、 ガザの人々は低賃金労働者としてイスラエルに出稼ぎに行くようになりました。 その結果、ガザで、「インティファーダ(イスラエルへの抗議運動)」が1987年に始まったのは自然なことでした。

1967年の第3次中東戦争を経てイスラエルはガザを2005年まで占領し、その間、ガザにイスラエル人の入植地を作り続けた。
イスラエルは2005年にガザから軍と入植者を撤退させたが、上空と境界線、ならびに海岸線を支配下に置いている。国連は依然として、ガザはイスラエルの占領下にあると位置付けている。

そんなガザは現在、イスラム武装組織ハマスが実効支配している。ハマスは、イスラエルの破滅をその目標として掲げ、イギリスをはじめ多くの主要国からテロ組織として指定されている。ハマスは2006年1月、パレスチナ立法評議会の選挙で過半数の議席を獲得し勝利。ヨルダン川西岸を基盤とする穏健派ファタハを率いるマフムード・アッバス自治政府議長を追い出すことに成功した。それ以来、ハマスはイスラエルとの戦いを繰り返している。イスラエルはエジプトと共に、ガザを部分的に封鎖し、ハマスを孤立させ、イスラエル都市へのロケット弾発射など攻撃をやめさせようとした。2023年10月7日以降、ガザに対するイスラエルの部分封鎖は完全封鎖となり、イスラエルは空爆を続けている。ガザ地区のパレスチナ人は、ハマスの侵攻に対するイスラエルのこの措置は、ガザに住むパレスチナ人全員に対する集団的報復に等しいと抗議している。現在の紛争に至る前から、今年になるとヨルダン川西岸と東エルサレムでは対立が悪化し、パレスチナ人の死傷者数は過去最多を記録した。イスラエルによる取り締まりと武力行為の激化も、かねて指摘されていた。この緊張悪化が、ハマスが今回イスラエルを攻撃した理由の一つだったのかもしれない。他方、ハマスは今回のイスラエル攻撃を通じて、パレスチナの一般市民からの支持を拡大しようとしていた可能性もある。イスラエルに侵入し、人質を取ることで、イスラエルの刑務所に収監されているパレスチナ人4500人(推定)の一部でも交換で釈放されれば、自分たちの人気はあがると、ハマスは考えていたのかもしれない。

中東和平はどう辿るか?

中東和平とは、中東地域においてイスラエルという国家をアラブ諸国が承認し、平和な関係を構築できるかという問題である。当初、アラブ諸国は、イスラエルという国家の存在を認めないという立場であった。イギリス委任統治領パレスチナを分割し、イスラエル国家とアラブ国家を創設するとともにエルサレムを国際管理下の都市とするという1947年の国連総会決議181に対して反対の立場であり、翌年のイスラエル独立にあたっては、エジプトを始めとする周辺アラブ諸国がパレスチナに攻め入り第1次中東戦争を引き起こした。イスラエルは、この戦争において欧米諸国の協力と自らの力で独立を守り、その後のイスラエル国家の基盤をつくったが、アラブ諸国に如何に自国を承認させるかが、中東における生存の鍵となっていきます。

 その後の累次の中東戦争を経て、イスラエルは1979年にエジプトと平和条約を締結した。アラブ最大国家がイスラエルの生存を承認したことはイスラエルにとって大きな勝利であった。1991年の湾岸戦争後に始まったアメリカ主導の中東和平交渉に対して、イスラエルは、平和と土地の交換を基本姿勢として参加した。この結果、1993年オスロ合意が結ばれ、敵対してきたPLO(パレスチナ解放機構)にイスラエルを承認させ、更に1994年にヨルダンと平和条約を締結した。オスロ合意では、自治が認められたパレスチナの最終的地位を5年以内に確定することを規定しており、アラブ・パレスチナ国家の樹立が、中東和平の大目標となった。5年以内の最終的地位確定はならなかったが、2002年には、アラブ連盟が、アラブ和平イニシアティブを提案し、更に2003年に中東和平カルテットによるロードマップが提示され、イスラエルとパレスチナという2国家共存解決に向けて当事国・当事者及び国際社会が協力していく気運が生まれた。

イスラエルは、国際的には仲間や味方を増やし、イランについても核開発能力に打撃を与えてきている。そして国内的には占領地区の支配を強化している。国内においてはパレスチナ自治区との間に長く高い壁を構築するとともに、フィリピン等非中東諸国からの労働者を増やし労働力のパレスチナ人依存を激減させた。

他方、パレスチナ側は、西岸ではファタハ、ガザではハマスが支配するという現状が継続しているとともに、パレスチナ自治区内のイスラエル支配の強化と入植地の増加で、結束力と対応力が弱体化している。そのため、イスラエルは、パレスチナ側の現状から同側との和平交渉を行う意思はない。

 このような状況を打開する力があるのは、アメリカであるが、バイデン・アメリカ次期大統領を取り巻く中東情勢は、一筋縄ではいかないものになっている。同次期大統領は、イラン核合意への復帰を考えているようだが、ファクリザーデ暗殺へのイラン側の対応次第では、戦闘の応酬があり、険しいものとなり得るとみられている。また、エルサレムのイスラエル首都承認を取り下げることは国内政治上難しいであろう。更に、UAE、バーレーン、スーダンのイスラエル承認を確実にし、承認国を増やす努力も要請されるであろう。オバマ政権下、バイデン副大統領は、中東和平を担当しながら成果を残しておらず、アラブ諸国、イスラエル双方からの信頼に疑問が残る。

 以上を踏まえれば、イスラエルは、バイデン次期政権からの働きかけがどのようなものであろうと中東和平、特にパレスチナとの交渉に熱心になるとは考えられない。バイデン政権は、まずイランをめぐる現状の中でアメリカの新たな位置を築かなければならない。中東和平は、そのはざまで、イスラエルにとってより都合の良い状況のまま進むと考えられる。

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